かつて事務所の裏には国宝があったかもしれない

投稿者:
島田 直行(弁護士)
2020.03.07 (更新日:2020.03.08) 経営者の方々へ

コロナウィルス感染防止のために自宅で週末を過ごされている方も多いでしょう。気晴らしになるかわかりませんが前回に引き続いて事務所近くの町並みについて書いてみましょう。

街道の起点から思いをはせる

僕たちは,いろんなことを見ているようで見ていないものです。例えば普段利用している階段。何段あるかと質問されるとなかなか回答できないでしょう。それほど近すぎるものは無意識になってしまって見えないものです。町並みにしても同じです。普段何気なく暮らしているから意外とじっくり見ることがありません。

事務所の裏には,永福寺という臨済宗のお寺があります。幽霊祭りというのが有名で下関市民の方ならテレビなどで見たことがあるでしょう。戦災で建物は焼失しています。高台にあるのですが眼下には関門海峡が広がっていて穴場的な景観の場所になっています。

お寺の入り口には,赤間関の石碑があります。旧山陽道の起点だったのでしょう。旧山陽道は,西宮からここまで続いていたようです。街道に思いをはせるというのもなかなかロマンを感じます。

なぜ観音崎町と呼ばれるのか

永福寺は,推古朝の時代に百済の聖明王の王子が聖徳太子を慕われて来所したさいに関門地域を気に入られて観世音菩薩を安置されたことからはじまるそうです。だからこのエリアは,観音崎町と呼ばれるようになりました。相当古い歴史のあるお寺というわけです。その後は大内家,毛利家の庇護を受けながら存続していました。

室町時代には,桂庵玄樹が住職を担っていたようです。彼は,室町後期の臨済宗の僧で京都南禅寺などで学んでいました。永福寺をでたあとは,遣明船に乗り中国にわたり朱子学を学んだようです。帰国後は応仁の乱などを経て鹿児島で朱子学の普及に尽力しいわゆる薩南学派の祖として有名になりました。聴衆と薩摩の不思議な縁を感じます。

このお寺で面白いのが参道の石畳です。通常であれば階段に対して平行に敷き詰めるのですがひし形になっています。これって禅宗だからではないかと勝手に想像しています。禅宗のお寺では,ひし形の参道というものを目にすることがあります。京都でも鎌倉でも。これは龍の鱗をイメージしているそうです。こういった足元の風景でもじっと眺めてみるといろいろ想像できて面白いですね。

失われた国宝になっているのかもしれない

さて永福寺の本堂は,1715年に建築されました。明治36年には,当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定されていたそうです。もっとも昭和20年7月の空襲で焼失しています。

明治政府は,廃仏毀釈で破壊された文化遺産の調査を開始しました。古社寺の建造物及び宝物類でとくに価値があるとされたものついて「特別保護建造物」または「国宝」と指定していました。古社寺保存法は,昭和4年に国宝保存法に引き継がれました。同法においては,古社寺保存法時代の特別保護建造物を「国宝」と称することとしていたようです。そのため永福寺の本堂が現存していたら「国宝」と呼ばれていたのかもしれません。推論ですが。笑

ちょっとした散歩ですが調べてみるといろいろわかるものです。かつて小林秀雄氏は,「歴史とは思いだすこと」と表現していました。こうやって手元にあることをヒントに過ぎ去りし時代に思いをはせるのもいいものですよ。