僕らは,人生に意味を求めすぎると無意味になってしまうパラドックスに陥っていないか

投稿者:
島田 直行(弁護士)
2019.09.16 (更新日:2020.02.26) 経営者の方々へ

 僕らは,あらゆることに意味を持たせたがります。いい意味でも悪い意味でも。意味があることが価値があって,無意味なことには価値がないとすら考えている節があります。「意味がない」ものを排斥しあらゆるものに意味を貼りつけるようとしています。「なぜ意味を加えないといけないの」かという理由もわからないまま。「意味を考えて」というのは,現代文の問題をはじめ人生においていったいなんど目にしてきたことでしょう。

でもあらゆるものに意味を付けないといけないとなると,それは強迫観念のようになって自分にせまってきます。僕らが大好きな合理性という言葉なんてさいたるものでしょう。「いったいどうすれば最少の努力で最大の経済的な効果を手に入れることができるのか」とあれこれ悩んでしまいます。あらゆることに意味を持たせようとすることで気がつけば疲れ果てることもあります。

わかりやすいものが自分の人生。僕らは,いつもの暮らしていてもずいぶんストレスを感じています。「ストレスを感じている」という実感がなくても積もるものがストレス。閾値を超えてしまうと自分の人生についてしみじみ考えるようになります。僕が仕事の合間にちょっとしたブログを書き連ねるのもストレスをどこかで吐きだすひとつのプロセスのようなものです。こういう自分の内面をだしていく場所をもっておくとのは,精神衛生上は大事です。そうしないと自分の頭のなかでぐるぐる悩んで「うわーん」となります。「島田さんは,メンタルタフですよね。だから弁護士できますよね」といわれますが根本的に間違っています。僕だって後悔することや悩むことばかりです。心折れてしまうこともあります。それでもなんとかやっていけるのは,ストレスのコントロールを冷静に実施しているからです。はっきりいって「やってられない」と感じることばかりです。

ところで僕らは,いつから自分の人生を客観的に見るようになるのでしょう。子どもの頃に自分の人生なんて考えることはありません。人生ではなく語るべきは「将来の夢」になっています。そういった夢と現実のなかで歩みだして仕事に就きます。働きだして間もない段階でも自分の人生をあまり考えることはないでしょう。とにかく自分のタスクを果たすことに一生懸命で「自分」ということを考える余裕なんてありません。僕にしても弁護士になって数年は目の前の仕事を果たすことだけで必死でした。独立して仕事がないという状況を目にしたときの焦りといったら。苦笑

自分の人生を考えるようになるのは,おそらく自分の死をなんとなく感じるような年齢になってからでしょう。「この演目も終わりを迎えるかもしれない」と感じるからこそ演目の意味を考えるようになるはずです。僕は,損害賠償を算定するために平均余命をよく目にします。そんなとき自分の年齢と平均余命の距離をふと感じます。「あと平均したら○年か」と。それが怖いとかつらいとかいうものではありません。事実として「その日」があるのだと意識するというものです。

でも実際に自分の人生の意味を考えてみてもよくわからないものです。「こういうつらい経験があった」「ああいう楽しいこともあった」というような事実と感想の思い出はあるかもしれませんが「意味」というのとはちょっと違うでしょう。そして自分の人生の意味が分からなくなって不安になってしまうかもしれません。どこまでいっても悩みは尽きない。。。

自分なりに悩んだ僕としては人生の意味なんてものはないととりあえず結論づけています。「ここまで記載して,それか」という突っ込みがあるかもしれないが。少なくとも現状においてはそう考えています。なんとなく島田直行という者が存在して日々の暮らしを過ごしている。それだけで僕としては満足しているしなにかを望みすぎるとかえって失うものが多すぎる気がします。人は,自分が何を失っているのか自分ではよくわかっていません。ある出来事を通じてはじめて気がつくものです。しかも「なかなか気がつかない」ものほどかけがえない失ったものというケースが多いです。

人生の意味で悩む人は,「意味」で悩んでいるのではなく誰かとの比較で悩んでいることが多いとつくづく感じます。「あの人に比べて自分は苦労が多い」など。自分を見ているのではなくて他人と自分の距離感を見て唖然としているのです。でも他人との距離感なんて計測の方法によってまったく違ってきます。相手からすればこちらこそ幸せそうだと感じているかもしれないわけで。他人との比較ばかりに目を奪われてしまうと自分というものを見失ってしまいます。自分を他人との比較でしかとられることができない。それは自分の人生を誰かの幸福度を計測する目盛りとして位置づけることと同じです。自分は気がつけば他人様のメジャー。それこそ人生は無意味だろ。

世の中なんてうまくいかないことが9割だと決意しています。人間関係にしても「みんなが笑顔でうまく」というのは理想論であってなかなか実現するものでではありません。仮に実現していたらものすごく人工的な笑顔ばかりになってしまうかもしれません。誤解やは腹が立つことだってあるのが人間です。みんなに好かれようなんてもともと無理な話であってほどほどの人に気に入ってもらえればOKというくらいが気楽です。得体のしれない「みんな」を対象にすると気苦労だけで倒れるから。しかも相手はこちらの気苦労なんて気にしていないのが通常です。そんなものだから真実は。

人材の育成にしても同じことがいえます。「これほど一生懸命にしているのになんでわかってくれないの」と泣きそうになることだってあるでしょう。現実として受け入れる姿勢がなければ何をどう伝えても相手には伝わらないものです。できない理由をあれこれ考えてもおそらく正解というものはないです。「できることを淡々と続ける」というのが現実的なスタンスです。そのなかで伸びる人は伸びていく。うまく伝わらない悔しさから自暴自棄になるのがもっともよくないしもったいない。人なんて簡単に成長できるものではないです。大人であればなおさらです。みんなわかっていることだけど自分の立場があって言えないのですよね。

僕のブログって好き勝手にかいていますが,気に入って定期的に読んでくださる人もいます。たまたま出会った人が「いつも読んでます」といってもらえるとうれしいものです。なぜ読んでもらえるのか。おそらくみんながどこかで感じていることなんだと思うのです。自分のなかでもやもやしているものがなんとなく言葉で表現されている。だから「他の人も同じじゃない」という安心感なりになるのではないでしょうか。書いている本人は,そんなこと1ミリも考えていないのですが。。

とりとめのない文章になったけど言いたいのは「自分の人生はこうあるべきだった。今の自分の選択は間違った」とか思い悩まないことだということです。そのときどきでベストだと思われる判断をしてきたのだから自分を責めるのはよくないです。自分を責めるのは,優しい人の特徴。でも優しさがときに自分を傷つけることがあることも認識するべきです。人生の意味を強いて問うのであれば,心揺れ動きながらもいつもの暮らしを維持し誰かを幸せにしていくことではないでしょうかね。

みんな大変だけど頑張っていこうよ。