ひととしての成熟性の不足ゆえに他人が気になってしょうがない

投稿者:
島田 直行(弁護士)
2021.06.23 その他

このところルッキズムに関する報道を耳にすることが増えました。ルッキズムとは,ひとを外見で差別する行為をいいます。たしかに普段の生活のなかでも余計なことを口にするひとっています。たぶんこういうことを口にするひとは,自分の発言が誰かを傷つけるという意識がないのでしょう。おそらく人間としての成熟性がたりない。ひとは,意識しようがしまいが他人と自分を比較してしまいます。このときの選択肢は3つ。「相違を受け入れる」「自分を高める」「相手を貶める」このなかでもっとも努力を要しないのが「相手を貶める」という方法です。相手のことなどを考える必要はなく一方的に罵れば,相対的に自分の劣等感をいたわることができると誤解しているわけです。相手がどう感じるかは問わない。必要なのは,自分の地位でありプライドということになります。
 そういうタイプのひとは,なにより孤独に耐えることができません。誰かを罵るときには,それは相手のみならず第三者に向けても発言しているものです。注目を集めるために発言を繰り返すといえます。周囲からの無関心こそ耐えられないわけです。赤ちゃんが自分の存在を周囲に表明するために泣くのに似ているのかもしれません。成熟した大人は,ひとはときに孤独でなければならないことを理解しています。だからこそときに周囲から関心を得ることができずとも泣きわめくようなことはないでしょう。

 ルッキズムについての個人的な経験を。僕は,ずいぶん身体的な特徴で馬鹿にされてきました。「声が高い」「腕が細い」「髪が薄い」など数えだしたら終わりがありません。それがストレスになっていた時期もありましたし他者との断絶の理由になっていたこともあります。気にしなくなったのは,弁護士としての実績を少しずつ積みあげていくことができるようになってからです。自分で事務所を引っ張り始めると,そんなことで悩んでいるだけの時間的余裕がなくなりました。最近では自分の髪の薄さをネタにして適当に扱うことができるほどには大人になりました。
 僕の場合には,20代の後半からすでに髪が薄くなっていました。その頃はやはりつらいものがありました。「はげだから」と笑いにはしていましたが内心ではなかなかどうして悩むところもありました。「モデルで生きていけるわけではないから」と作り笑いをしていましたね。でも本音を言えば道化師の涙のようなものです。そういう時代があったからこそ同じようなことで悩むひとに対しても「ほっとけばいい。言わせとけ」とアドバイスができるかもしれません。
 僕は,弁護士として生きていくうえで「傷つく」という経験が必要不可欠と考えています。自分が深く傷つくような経験をしないと誰かの苦しみというものに寄り添うことはできません。世の中は,「どうすれば成功するか」という話にあまりにもあふれています。誰しも豊かで穏やかな暮らしを求めます。ですが現実は,甘くはありません。大半のひとは,なんとなく周囲の声にのせられて成功を求めるもののうまくいきません。むしろ挫折してしまうものです。そして挫折をしたら立ち直れなくなると感じるときもあるかもしれません。でも挫折や失敗を経ずに人間的魅力にあふれたひとに出会ったことはありません。ひとはいついかなるときからでも学ぶことができる存在です。誰かを罵るのではなくできる範囲で自分を高めていく。そこに幸せを見いだす。それこそ僕なりの幸福感です。

 このところさらに自分の髪が絶滅危惧種になりつつあります。そういう状況下でなぜか頭頂部の髪だけがピンと立ち上がるのです。なんど押さえても立ち上がる。丸顔にこの髪だと波平さんかキューピーかと。さすがに法廷に行くにしても情けないということで床屋のマスターに相談。すると「これはバッサリ切るしかないです」というアドバイスをいただきました。「わかりました。バッサリやってください」と心を固めてオーダー。まるで失恋した女性が髪を切るような感覚で。真剣なまなざしのマスター。息をのむ坊主の弁護士。「できました」という声のもとで「おー。さすがだ」と。感動のもとで胸元の切られた髪を見る。そして冷静に知るわけです。「坊主だからバッサリといっても数ミリの違いだよな」と。

涙とともにパンを食べたものでなければ,人生の味は分からない

ゲーテ

*この記事はメールマガジンからリライトしたものです。