コロナ禍で不自由を感じるときに抑えるべき覚悟

投稿者:
島田 直行(弁護士)
2020.06.12 経営者の方々へ

今回のコロナで多くの人が不自由を感じるているであろう。自由に動けない,自由に会話できない,自由に買い物もできない。あたりまえだと感じていた日常がたぐいまれなる自由の上に成立していることを感じたかもしれない。そもそも民主主義の歴史は,自由獲得のためのプロセスのようなものだ。「自分の考えを自由に表現できる」というのは,あまたの先人らの流血のうえに手に入れることができたもの。コロナのなかで不自由であることが人間の暮らしに与えるストレスなりを感じはたずだ。こういうときに私たちはどういう覚悟で目の前の現実を受け入れていくべきであろうか。

自由というのは幸福を求めるためにある

「自由がすばらしい」というものは誰にとっても共有できる価値観だろう。もっとも「なぜ自由であることが必要なのか」と質問されたときにあなたはどのように回答するか。そこまで踏み込まなければ自由について考えたことにはならない。

こういったときに「これが正解だ」というものはない。人は,テストを受け続けたことですべての質問には唯一絶対の正解があるような錯覚をする。世界の疑問の大半には正解なんてあるはずがない。学校の試験の解答にしても本当に本の裏に出ている解答が正しいものであるのかわからない。現実の課題であればなおさら。僕らは,世界を「自分の価値観」を通じて認識して理解している。立場が違えば目の前の課題に対する評価も違うはずだ。それをすべて無視して「これが正解。あなたは間違い」とかいいだすから世界から争いがなくならない。「僕はこういう考え。でも君の考えもあるよね」くらいの緩い対応が平和的解決になる。少なくとも僕はそういう暮らしをしたい。

話しを戻してなぜ自由なのか。僕としては,やはり個人の幸福のためと思う。司法試験のなかでは最初にたいてい憲法から学ぶ。さりとて実際の事件で憲法論を声高に述べるようなことはあまりない。それでも最初に学ぶのは,すべての法律の根幹になるからだ。そして憲法においては,幸福追求権(13条)を学ぶ。これは個人が幸福を追求することを国家が阻害するなということ。ここに自由主義がでてくる。

まず大事なのは憲法は,「これが幸福だ」という幸福の定義はなにもしてない。守るべき価値は,個人が幸福を追求するということ。なぜ幸福ではなく幸福を追求するというプロセスなのかと言えば,個人の幸福は人によって違うからだ。国家が「これがあなたの幸福です」と定義したらおかしいでしょう。だから「幸福はあなたが決めてください。あなたがそれを求めることを国家は阻害しません」という組立方になる。このように僕らが手にしている自由というのは,僕らが幸福になろうということを後押しするためにあるものだ。

完全なる自由は混沌の世界になる

このように自由というのは個人にとってかけがえのないもの。誰しも自由でありたいと考えるだろう。でも完全に自由というものは本当は想像しにくい。エーリッヒ・フロムは,「自由からの逃走」という本においてナチスの狂気を生みだしたのは人間に与えられた自由という恩恵であったと指摘している。自由というのはときに冷静な判断を失わせるものだ。

目を閉じて「完全に自由な世界」というものを想像して欲しい。おそらくイメージできるようでなかなかイメージできない。仮にイメージできたとしても不安がなく穏やかな暮らしといったところか。それは結婚というイメージについて結婚式をイメージするようなもの。実際の結婚は,結婚式の後の日常だ。結婚式はスタート地点のある一瞬を切り取ったものでしかない。

あたりまえのことだが社会は,複数人が協力し合っているからこそ成立している。いろんな価値観の人が共存しつつなんとか自分の居場所を維持しているのが現実的なところだ。いくら法理論を語っても,そういった現実を否定することはできない。こういった状態で各自が「自分の自由だけ」を語り始めたら終わりがないし混沌の世の中になってしまう。ちょっとずつ「これくらいにしておこう」という意識があるからこそ社会全体としての最大公約数的な暮らしができる。

世の中には「俺が正義だ」という勢いで邁進する人もいる。そういった人はときに輝いて見えるしカリスマ性を帯びているように感じる。自分に自信がないと「この人についていかなければ」という錯覚にすら陥る。でもたいていこういう人はメッキがはげてしまって周囲の人を落胆させる。周囲の人も夢から覚めて「なんてことをしてしまった」という後悔の念に駆られる。

自由というのは,難しいけどある程度の不自由なり制限があるからこそ実感できるものだ。ここでいう不自由というのは,いわば他者に対する思いやり。「ここまですると迷惑かけるよな」というあたりまえの感情が実際には自分の自由を味わうことになる。「まぁこのくらいでいいや」というゆとりが自由を実感させるのではないかなと。不自由ばかりが感じるときに「不自由があるからこそ自由がある」と考えれば少しは楽になるのではないでしょうかね。