下関のある道に流れる時間

投稿者:
島田 直行(弁護士)
2020.03.01 その他

新型コロナウィルスの話題ばかりで外出もできずなんとなく時間を持て余している人もいるかもしれません。そういうわけでどうでもいいんですけど僕の事務所周りの様子をちょっとお伝えしてみましょう。「下関ってどんなとこ」という人の参考になれば。下関の人にとっては「そうだよね」というところかもしれませんが。笑

この道はどこに続いていくのか

事務所裏にあるのが山陽道。いまでも金融関係のビルが多いのが名残

事務所の裏には,一本の道があります。これがかつての旧山陽道の名残だそうです。山陽道は,今でいう西宮から下関まで続いていました。距離にして約550キロメートル。この道を名もなき人々が往来することで明治維新をはじめとした歴史が動いたと考えるとなかなか趣深いものです。ちなみに下関の関所は赤間関(あかまがせき)と呼ばれていました。

下関市のかつての名前は赤間関市と呼ばれていました。ではなぜ赤間とかつては呼ばれていたのか。たぶん下関市民でも知っている人は少ないでしょう。諸説あるようですが有名なのが関門海峡にあるワカメです。ご存知のように下関は関門海峡をはじめとした海の文化の町です。市内では和布刈祭というものがあり和布をお供えします。もともと海中の和布には神が宿るという信仰があったそうで,和布を祭ることで海の安全などを祈願する意図があったのでしょう。この地域で海と関わって暮らす方は,「ワ」を「ア」と発音し「ワカメ」を「アカメ」と発音していたそうです。そのため「アカメ」がなまって「アカマ」になったというものです。

重厚なつくりの旧山口銀行

旧山陽道には,往年の賑わいを偲ばせるものとして金融関係の建物が今でも多いです。日銀下関支店も近くにあります。事務所から数分歩けば旧山口銀行の建物があります。現在は史料館になっていますが今でも重厚な雰囲気を醸しだしています。最近はこういった「語る」べき建物が少なくなって残念です。

下関は意外と坂の町なんです

猫も見かける坂の町

下関市外の人からすれば「下関=ふぐのまち」というイメージでしょう。ですが個人的には坂の町というイメージです。とくに江戸時代から繁栄していた旧市街では圧倒的に土地がない。海があって山があってすきまに土地があるようなものです。結果として山の裾野などに住宅が並んでいます。坂と路地というのは趣があって好きなんですが高齢者にはとかく坂での暮らしはきついとも聞きます。僕らは,人の暮らし方が都市の構造を決めると考えがちです。ですがいったん都市ができあがると,それに合わせて暮らしていかないといけないというのが現実です。それがときにかなりの不自由さをともなうこともあります。なんか哲学でいう構造主義みたいなものです。

下関は歴史がある町なので地名も気をつけてみるとなかなか面白いです。地名ってまさに都市の文化なので。僕の事務所は,観音崎町というところにあります。市内には,他にも伊崎町あるいは長崎町という「崎」がつく地名が多いです。ある人から「崎」というのは,もともと風の強い場所という意味ときいたことがあります。それが真実かどうかはわかりませんがたしかに風はすごく強い。外から来た人が最初に驚くのが風の強さと醤油の甘さ。この町で暮らしている人にとってはあたりまえなんでわからないものですが。

なぜ最寄りのバス亭は「三百目」なのか

ある読者の方から「三百目」の由来についてもとコメントをいただいたので地名の由来つながりで書いておきます。

僕の事務所の最寄りのバス停は,「三百目」と呼ばれるバス亭です。一般的にはバス停は,設置された場所の地名がつきますよね。でも下関市内に三百目という住所はありません。では三百目という言葉はどこから来たのでしょう。そもそも三百とはどういう意味でしょう。おそらく大半の人は知らないでしょう。笑

この場所には江戸時代まで大雨時に氾濫する川があったそうです。そこで篤志家が橋を架ければ便利になるだろうと藩に銀三百匁を寄進し橋を作ったそうです。できた橋が三百目橋と命名されたことで「三百目」という言葉が残ったわけです。現在は川も含めて埋められたことで面影はないですが明治初年くらいまではあったようです。

ちなみに銀一匁は,現在価値でいえば1250円くらいです。ですから三百匁では,38万円くらい。さすがに38万円では橋は作れないでしょう。

もともと三百という数字は,「たくさん」という意味がかつてあったようです。例えば「触り三百」というよううに。ですからおそらくたくさんの寄進をしたという意味で三百匁となったのでしょう。いずれにしても尽くしたことで名が残るといういい例です。

この町には維新の残像がまだあります

下関といえば高杉晋作をはじめとした明治維新。ある意味現在も明治維新の延長線上に生きているようなものです。それほど山口県にとって維新という言葉は哀愁をもって響くものがあります。たぶん。。。

なんというか明治維新のエネルギーって吉田松陰の「諸君,狂いたまへ」に集約されそうな気がします。「現状ではいかん。さりとてなにをするべきかわからん」という人々の感情がちょっとしたできごとでいっきに表層にでてきたものが明治維新だったのではないかと。あくまで個人的な意見ですが。

歩いているといきなり歩道横にあります

さて話を戻して事務所近くにも明治維新のものはあります。事務所から東に5分くらい歩くと馬関越荷方の石碑があります。馬関越荷方は,長州藩が作った商社みたいなものです。相場の安い時には特産物を留め置いて高くなった市場に流して利ザヤをとるというものです。これを担当していたのが高杉晋作。

僕らは,明治維新というととかく思想的なものに目を向けがちです。ですが一連の行動を長州藩がとることができたのは,経済基盤があったからです。いくら立派な思想でもカネがなければ何もできないのはいつの時代も同じです。

こういった経済的に重要なポジションに高杉晋作をはじめとした優秀な人材を配置していたのがすごみではないでしょうか。僕は,そういう観点から長州藩を見て欲しいなと感じています。企業経営も同じですが「誰に何を任せるか」という人材の配置こそ組織存立の要です。

光明寺

事務所から逆に西に10分くらい歩くと光明寺というお寺が見えてきます。

吉田松陰の松下村塾において双璧と言われたのが高杉晋作と久坂玄瑞です。久坂は,光明寺党という組織を形成し攘夷を展開していきます。光明寺党は,儒学者や医者などさまざまなメンバーからなっていました。のちに高杉晋作が結成した奇兵隊の母体となっていきます。

事務所を中心に高杉と久坂がいるというのもなんとも不思議な感覚です。

金子みすゞも事務所裏をあいていた。たぶん

金子みすゞの作品はどれも優しいにつきる

山口県代表する詩人のひとりといえば金子みすゞ。その万物に対する慈愛の目線は今でも人々の心に寄り添います。

金子みすゞといえば出身地である長門市が有名です。ですが実は下関にも3年半くらい働きながら暮らしていました。彼女は,鮮烈なデビューとは裏腹に夫から詩作を禁じられるなど苦労も多かったようです。

彼女は,下関市内にある上山文栄堂という本屋で店番をしながら詩の創作活動をしていました。本店跡地が事務所から東に8分くらいのところにあります。

この本屋はかなり大規模で海外にも支店を展開するなど当時では西日本屈指の規模だったようです。本屋好きとしては,存続して欲しかったというのが本音です。彼女も本に囲まれて落ち着いていたのかもしれません。

こんな感じの当事務所近辺。たまには歩いてみてください。