新型コロナについて情報がわかりにくいと感じる理由について

投稿者:
島田 直行(弁護士)
2020.07.26 その他

新型コロナについては毎日たくさんの情報が届けられる。感染者数の増加を耳にすると患者の方の一日も早く回復を祈るとともに「いったいこれからどうすればいいのだろう」という不安を抱いてします。「どうなるんだろう」という素朴な感情は,はおそらく誰しもが共有する感覚ではないだろうか。

たくさんの情報が手に入るものの「情報が多すぎてよくわからない」「情報の多さにつかれた」という声も少なくない。コロナ解雇やコロナショックといった関連する言葉も増えるばかりで脳内処理量のキャパを超えるというのもうなずける。僕なりに考えた現状の課題について備忘ためにここに書いておこう。

情報を発信する目的が統一されていない

「PCR検査をもっと増やすべきかどうか」「ワクチンの方向性はどうか」「医療は逼迫しているのか」といったさまざまな情報が提供されている。情報を浴びる側としては,聞こえるのだが理解できないという状況になっている。これは情報を発信する側において「なぜその情報を提供するのか」という目的が統一されていないからだ。

情報を提供する側にもさまざまな目的がある。「客観的な事実を伝えたい」「危険性を喚起したい」「視聴者に問題意識を持ってもらい」など。通常の生活ではさまざまな目的で発信がなされてもとくに問題はないだろう。でもこういった危機的な状況においては混乱を招くこともある。ある事実にしても伝える側の目的によって見え方がまったく違ってくるからだ。受け取る側としては「いったい事実がなんだ。どうしたらいいの」ということになる。

情報を集約させるプロセスが共有されていない

危機的な状況においては,みんなが規律をもって行動する必要性がある。そのためには求められる指針はシンプルでなければならない。人によって解釈を求められるのようなものではならない。

こういった指針は意見の集約のなかで成立していく。多くの知見を総合しながら「とりあえず現状において考えられるベストな選択はこれ」と専門家の方に判断してもらうほかない。素人である僕らがいくら感染症の対応を考えても意味がない。こういうときこそ専門家の知見を信じるほかない。むしろ専門家の方が自由に議論する場を設定するのが僕らの役目であろう。事後的に専門家の判断を批判するようなことがあるべきではない。そんなことされたら誰しも萎縮して本来の能力を発揮できない。

こうやって意見を集約していくには,その統合のプロセスが整理され共有されておかなければならない。でも現状では各自が自分の見解を述べるだけという場合が多い。集約というプロセスがないために「何を信じるべきなのか」がわからない。

他者を否定することがオリジナリティになっている

コロナに限ったことではないが安易に他人の意見を言葉汚く批判することが目立つ。こんなものは批判でも何でもない。たんなる罵詈雑言でしかない。言われた側がどういう気持ちになるのか理解できないのだろうか。

しかも他者を否定することをまるでオリジナリティのようにとらえている人がいるから困る。こういう方はときに極端な意見を提示して衆目を浴びるように自分を描いていく。目立つこと=真実のことのように着飾りながら群衆の間を闊歩することになる。とても危険。

たいていの場合において真実というのはいたって無難なものでありふれたようなものだ。

内容を「伝える過程」に人材が不足している

情報を伝えるということは,情報というコンテンツと情報の伝え方というふたつの要素から成り立っている。いくら情報量があったとしても伝え方が不十分であるとせっかくの情報を活用することができない。

情報の伝え方については,海外のメディアがやはり「すごいな」とつくづく感じる。グラフひとつにしてもそうだ。たんに棒グラフにすればわかりやすいというものではない。同じ棒グラフにしても日本の番組と海外の番組を比較するとわかりやすさに歴然とした差を感じるときがある。海外の番組のものは文字が読めなくても見ただけで「こういうことだろう」と推測がつく。

伝え方については,なにを,いつ,どうやって伝えるかがポイントになる。ひたすら情報を詰め込んでも意味がなくむしろ削減したことでわかりやすいこともある。情報をデザインできる人材をもっと日本も確保していかないと。少なくとも事務所では,それができる人材を確保していこうと考えを強くした。

とまぁ好きに書きました。皆さんはどう考えますか