書評:「今、ここ」にある幸福

投稿者:
島田 直行(弁護士)
2020.02.11 その他

何かを読むときには,目的があって読むものもあれば目的もなく読むものもあります。人生で悩んだときに支えてくれるのは,案外目的もなく手に取った一冊ということも珍しくありません。ネットで本を購入するのは便利ですが本とのふとした出会いというものがすくなくなりました。どうしても自分のこれまでの販売歴から傾向を推測されて提案されるため「自分の興味のあるもの」にしか触れることができません。これまでの延長線上に次の一冊が配置されているようなものです。本屋に行って時間をつぶすのは,あえて脱線して目的もなく手にする一冊を見つけるためです。

また本には,一気に感情的になれるものもあればじわじわ伝わってくるものもあります。前者は一気に感情が高ぶりますが記憶に残りにくいものです。夏の夜の夢のようなものでしょう。これに対して後者は,「そうだよね」「なるほどな」となんというかしみじみ感じるものです。高揚感はないけれども時間を経過するごとに味わいが増してきます。琥珀色のウィスキーのようなものです。僕は,個人的には後者のような作品が好きですね。これはあくまで好みの問題ですが。

今月たまたま出会ったのは岸見先生の「今、ここ」にある幸福です。岸見先生と言えば,「嫌われる勇気」が大ベストセラーになった方です。僕は,前から岸見先生の本が好きで見つけるとなんとなく手に入れています。

先生の本の印象は,個人的に「しみじみ」に尽きます。なんという読んで「ほっ」とする人生の清涼水のようなものです。本を読んでいきなり何かが劇的に変わるようなものではありません。むしろなにも事実として変わるようなものではありません。言うなれば自分のマインドセットを変えて現実の解釈の仕方を変えていくようなものです。自分の捉え方を意識的に変えるだけなので誰にでもできるところがすばらしい。

先生の本に救われるのは,なにより現状肯定からはじまるからです。「このままではいけない。頑張ろう」「夢を実現させよう」というのは,前向きな言葉ではありますが根底に「現状ではまずいのです」という現実の否定があります。そもそも現状に満足していたら「よりよい方向へ」というモチベーションにはつながりませんよね。未来志向という言葉は綺麗ですが裏側から見れば現実否定ということになります。未来を眺めすぎてしまって足下の現実を見失ってしまうことは案外あるものです。人は,不確実な将来に対する圧倒的な期待を強いられるがゆえに苦しむところがあります。でも大事なのはまず現実。ここを肯定しないとぬかるみからでることはできません。先生の指摘もこういうことではないかとかってに解釈しています。

今回の本は「どうやって暮らしていくか」のエッセーのようなものです。平易な文章の背景には,先生の知見が散りばめられています。最初に手にするには読みやすい一冊です。タイトルの「今,ここ」というのはアドラー心理学の基本的な概念です。過去でもなく未来でもなく現在に集中するという意味です。現在に意識を向けることで過去の事実の評価も将来への展望も変えていくことができるのでしょう。

本書の中でとくに好きなのは希望とは,常に誰かが提供してくれるものという指摘です。僕らは,希望というものを個人的なものあるいは内面にあるものと考えがちです。ですが実際には誰かとのふれあいを通じてはじめて希望を知ることができます。それは自分でつくりだすものではなく誰からのギフトなのかもしれません。

読むと心が少しだけ穏やかになります。