2019年のふりかえり:悩み,時間そして誰かの教え。

投稿者:
島田 直行(弁護士)
2019.12.29 その他

「新しい時代」と枕詞のように言われた令和元年ももうすぐ終わる。今年も事務所ではいろんなことがあった。予想できたことが1とすれば予想できなかったことが9といったところか。実際の生活ってそんなものだろう。むしろ予想通りに展開することの方が不自然で気味が悪い。そんなわけで今年1年をちょっとふりかえってみよう。

人生における悩みをゼロにすることをあきらめた

あたりまえだが誰しも悩みを抱えながら日々暮らしている。悩みはあまり口にだすべきものでもないだろうからひた隠しながら暮らしているのが通常だ。悩みを抱えると「あの人は悩みがなくていいな」とうらやましく思うもの。さりとて相手も悩みを抱いているものだ。

今年もたくさんの「人の問題」に関わってきた。労働問題も相続問題も根底になるのはつきつめれば人の問題といえる。人の問題は,法律や判例で解決できるものではない。むしろ紋切り型の対応をすると感情を逆なでてさらに深い傷だけ残すことになる。弁護士として自分のスキルを振るうときには自制的であるべきだ。

僕らは,自分の悩みを乗り越えていきたいと願っている。「こうすれば不安や悩みから解放される」という類いの本やセミナーを目にすることが増えたような気がする。社会全体が複雑化しすぎしてしまって「検索すれば自分の悩みの解決策があるかもしれない」と過剰な期待をしているのかもしれない。

弁護士にしてもしかり。若い頃は「勝訴すればクライアントの悩みはのぞける」という外科手術的な発想であった。でもこれは10年以上やってきて間違っていたことだけは理解できた。人間の悩みと裁判の結果は必ずしも一致するものではない。勝訴しても敗訴しても悩みは残り続けることが珍しくない。

僕らは,「悩みは解決できる」と考えているからこそ「解決できない自分」に悩んでいる。そこで僕は,前提を変えてみることにした。つまり悩みは解決できないという前提に立つことにした。そうすると残るのは,悩みとどうやって付き合っていくかになる。

こういう発想の転換は病気との関係性に似ている。僕の周りにもいろんな病気を抱きながら暮らしている人がたくさんいる。そういった方は「病気と付き合う」という言葉をよく使われる。僕は,対象を排除するべきものと敵視するのではなくうまく関係性を持っていくというスタンスこそ人生の質を高めるうえで必要なことだと考えている。

悩みにしても「どううまく付き合っていくか」と位置づけるとずいぶん気が楽になった。「ではどうやって」というのがこれからの課題か。

人生の後半戦にはいってじっくり考えるためにあえて時間を確保した

毎年一年が早くなっている。男性の平均余命が約81歳なので自分の人生が後半戦にいつのまにか突入していた。これまでのように「何かを追い求め加えていく」だけではうまくいかないようなが気がしている。そろそろ自分の人生というものから目を背けずに考えないといけないけど時間がない。

かつて「時間がないのは誰しも同じ。それは君の仕方がまずいの」と先輩から指摘されたことがある。「それはそうだが」と迷いつつ現在に至る。たぶん「そうだよね」と共感する人もいるだろう。

ビジネスの世界では,スピードが重視されている。とくに生産性が声高に標榜される昨今,いかに早く結果をだせるかがポイントになってきている。僕も,自分の仕事においてスピードを重視している。できるだけレスポンスよく対応するのがクライアントのストレス軽減に寄与するからだ。「なにかが変化している」ということが安心感にもつながっていくだろう。こういったスピード重視の傾向はおそらくこれから加速することはあっても停滞することはないだろう。

でも同時にあまりにスピード重視になってしまうとじっくり考えることができなくなる。しまいには「考える」というプロセスすら忘れてしまうことになる。

この世界は複雑だ。なんでもかんでもシンプルに理解してシンプルに決定できることばかりではない。スピードありきで暮らしていると本質的な問題を見落としてしまうことがある。

大事な問題はやっぱり立ち止まって時間をかけて考えなければならない。そこであえて「考える時間」を手帳の時間枠として確保した。経済的利益だけを追求すれば,その枠にも仕事を突っ込むべきなんだろうが自分のライフスタイルと違う。そもそもそんな雑な仕事を事務所として提供したくない。自分の事務所で処理できる事件数できちんとしたサービスを提供したい。「考える時間」というのはサービスの品質を高めるうえでも必要なものだ。

コーヒーを飲みながらじっくり考える時間。あえてなにも生産しないからこそ生産性が高まる気がする。

誰かに教えていただくことの重要性を再認識した

気がつけば弁護士としての仕事をそれなりの期間やってきた。なりたての頃は「この事件はどうやったらいいのだろう」と悩むことばかりだった。それでもひとつひとつの事件からキャリアを重ねていって少しずつ事件の見通しというものが見えてくるようになった気がする。錯覚かもしれないが。

もちろん世の中にはひとつとして同じ事件はない。すべての事件には個性がある。それでも「こんな展開にしていけばいいかな」という方針は自分で描けるようなってきた。

でもこれはこれで危険な兆候だと冷静に自分を批判している。「これはこう」と自分のなかで固定化してとらえるようになると事実を自分の思考にあわせようとするかもしれない。これでは事実を正確に把握することができず自分の都合の良いように解釈することになってしまう。周囲が「それは違うでしょ」と言ってくれたらいいけど誰も言わなくなったら最後だ。裸の王様になってしまうかもしれない。そんなぼんやりとした不安のなかにいた。

そんななかで易経をあらためて読んでみた。なぜ易経を読み返そうとしたのかはよくわからないが本能的に求めていたのかもしれない。そこには飛躍するためにこそあらためて誰かに教えを請わなければならないという趣旨の文章があった。妙な納得感があった。なんとなく自分でできるようになってくると誰かに教えていただくということを意識しなくなっていた。気がつけば無手勝流になっていたようなものだ。

誰かに教えていただくというのはやはり重要だ。それは別に同じ仕事に限らずあらゆる出会いのなかに学ぶべきものがある。つまるところ自分に学ぼうという意識がなければたんなる出会い終わってしまう。あらゆる人から「何かを学ぼう」という気持ちで接すると「自分はまだまだだな」と痛感するようになった。

誰かに出会い意見をいただくことは自分を冷静に見返すことだ。僕は,ロールモデルとさせていただいる先輩の方に年末に近況(迷いなども含め)を報告させていただいている。フィードバックをいただくのだがいつも勉強になる。意見をいただくことで自分を客観的に見ることができる。なんとも貴重な経験をさせていただいている。

人はいつも誰かを通じてしか自分を知ることができない。自分を知るためにも「教えていただく」という姿勢は大事にしないと。いつか自分を見失ってしまうかもしれない。

とまぁ内省的なとりとめのない2019年のまとめとなりました。こんな感じで一年を終わらせて来年もぼちぼち頑張っていきます。みなさんもよい年の瀬をお過ごしください。