仕事は苦役なのか。なぜはたらくのか

投稿者:
島田 直行(弁護士)
2021.04.24 (更新日:2021.04.27) 経営者の方々へ

僕は,今年から不定期に興味のある人を募って哲学についてのオンラインセミナーを開催しています。セミナーというほど立派なものではなくテーマについて好き勝手に参加者同士でワイワイやっているというだけです。なにか正解を求めるという趣旨のものではなく「考える」ということを大事にしています。この時代において情報はあふれるほど手に入れることができるのですが考える機会は目に見えて減少しています。結果として周囲の情報に流されて自律的な判断をすることができなくなっている印象を受けます。そういった閉塞感をなんとか打破したく「これどうだろう」という機会を自分で用意したということです。昨日は,「はたらく」ということについて考えてみました。なかなか議論が盛りあがったのでこちらに概要を共有しておきます。

ニーズと環境のミスマッチが悩みにつながる

議論のスタートは,キリスト教的な労働観からはじめてみました。キリスト教では,原罪という概念があります。つまり人間は,もともと何らかの罪を背負って生きているということです。こういった認識を前提に労働をひとつのペナルティとしてとらえる傾向があります。つまり労働とは使役でありできれば避けたいということです。もちろん現実の社会では「はたらいてがんばろう。人生を充実させよう」という人もたくさんいるでしょう。ですが宗教的価値観からひもとけば労働というのは人間に課せられたものということになるはずです。だからこそ僕は,より少ない時間でより大きなパフォーマンスを手にする生産性という言葉が西洋で尊重されるものと考えています。

こういった傾向は労働契約の内容にも影響しています。欧米では,人を離れて「職種や業務の専門性」をベースに賃金を設定する職務給が採用されることが多いです。つまり「なにをどこまでするか」が契約内容で明確にされています。だからこそ「これは自分の担うべきものではない」という反論がなされます。いっぽう日本では,個別の業務と言うよりも人にフォーカスして賃金を設定する職能給が一般的です。この場合には各自の担う範囲が契約で必ずしも明確になっていません。「契約で明確にしましょう」とは呼ばれるものの「あまりぎすぎす指定するのも」という経営者の声も少なくありません。経営者の本音としては「指示したものはうまくやってほしい」というものでしょう。むしろ「それは契約の範囲外です」と面と向かって言われると正論でもイラッとするかもしれません。

日本人の場合には,「労働=苦役」と捉えている人はあまり目にしません。もちろんブラック企業という言葉に代表されるように職場環境が悪いために働きたくないという人はいるでしょう。ですが働くこと自体がつらいというケースはあまりない印象を受けます。現実的には「働きたい」というニーズと「働ける環境」のミスマッチで悩んでいる人が圧倒的に多いでしょう。

人は自分ではない誰かのために楽しみをみいだす

参加者の声として多かったのは,働く目的は自己実現のためというものです。この場合の自己実現というのは,自分のなかでの満足感や納得感といったものでしょう。興味深いのは,いかなるときにはたらくことで充実感を手に入れるかということです。参加者の声であったのが「自分ではない誰かの役に立つとき」「誰かを幸せにできたとき」という自分を離れた他人のために尽力できたときということです。

この意識は労働というものについての本質的な意味を含めています。僕は,労働というのは社会というひとつのシステムを維持するためのものだと考えています。それぞれが自分の果たすべき役割を尽くすことで社会が成立しているということです。つまり労働とは,「自分が社会の一部として貢献している」ということを認識させるものです。いわば個人と社会の接点ということでしょう。こういった接点がなくなると人はつながりを感じることができなくなり極度の寂しさに襲われてしまいがちです。例えば典型的なのは社長業を離れることができない人があげられます。「社長、その事業承継のプランでは、会社がつぶれます」のなかでも触れていますが社長を離れることができない人は,「社長という肩書」を離れたうえでの社会とのつながり方がわからないのです。社長という地位と自分のアイデンティティが一体化してしまいすぎて社長ではない自分の社会における居場所がわからずに現実の地位に固執してしまうというわけです。

僕は,現代の課題のひとつとして自分の役割が社会に与えるインパクトが見いだしにくくなったことがあると考えています。あまりにも社会が複雑化しすぎてしまって「いったい自分は誰かの役に立っているのだろうか」と疑問に感じてしまうというわけです。それが社会全体を覆っている虚無感に至っているような気がしてなりません。だからこそ立ち止まって対話を通じて「自分は役に立っている」という自信を抱くプロセスが必要になってきています。これは職場環境においても同じです。企業にとって売上が大事なのはあたりまえのことです。利益がなければ社員の生活を維持することもできません。ですが売上だけを目標に設定してしまうと社員としても「自分は売上のための歯車なのか」という認識に陥ることがあります。それは無意識にです。そうではなく自分たちの活動が社会をよりよくする方向性に向かっていることを語り続けることが大事です。そえが経営理念であり経営者の哲学と言えるでしょう。

昨日のセミナーでもあったのですが経営者はやはり大きな旗をかかげないとだめです。それは周囲からすれば「無茶な」と笑われるものかもしれません。ですが無理な目標でもトップが「やるぞー」と声をあげれば「こんな社長だから」と社員も苦笑いしながらでもついてきてくれるものです。人は目指すべき方向性があるからこそ歩きだすことができます。

自分の感情を自分の言葉で踏み込んで表現する

最後に自分の感情を自分の言葉で踏み込んで表現することの重要性も議論しました。「仕事を楽しみたい」という人は多いでしょう。では質問しますが「楽しい」という感情はどういう感情でしょう。踏み込んで誰にでも共感できる言葉で表現してみてください。こういった質問をされるとたいていの人は回答に困ってしまいます。楽しいというのは当然誰しも共感している言葉だと認識しているために踏み込んで考えることがないというわけです。

ときめき,わくわくなどいろんな回答がありました。すべてが正しくすべてが間違っています。なぜなら誰しもが納得するような「楽しさ」というものは存在しないからです。楽しみというのはある意味では完全に独立した個人的な感情でしかなく誰とも共有できるものではありません。簡単にいえば僕のもっている「楽しい」という感情とあなたのもっている「楽しい」という感情はおそらく違っているし,あっていることの確認すらできないということです。つまり「何か楽しいことないか」と周囲に質問すること自体が無駄なことだということです。いくら周囲を見渡しても自分にとっての楽しみというものはありません。自分のなかにしか楽しみは見いだせないということです。人は周囲の人が快活でまぶしいような暮らしをしていると羨望と妬みで眺めてしまいます。「楽しそうだ。うらやましい」と感じてしまいます。ですが実際に同じ暮らしをしたら楽しいと感じるとは限りません。おそらく外部を眺めている限り永遠に楽しさに満足することなんてないでしょう。だからこそ「今ここで自分は何を楽しく感じているのか」と立ち止まることが人生のクオリティをあげることになります。

感情というのは自分の言葉で表現してこそ自分のものになります。ありきたりの言葉を借用するのではなく模索し続けることではじめて自分の感情の輪郭と言ったものを自覚できるようになるのではないでしょうか。

そんなことを議論した一時間でした。興味のある方はお声がけください。