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宗教の意味についての私見

安倍元総理が凶弾によってお亡くなりになりました。故人のご冥福をお祈りするばかりです。このたびの事件においては多くの方から「この先の日本はどうなるのか」「なんだか不安で力が入らない」といったメッセージをいただきました。このメルマガをご覧になっている方も言葉にならない不安というか喪失感に襲われた方がいらっしゃるでしょう。

今回の事件では宗教という言葉があがっています。事件の全容が不明な現状で今回の事件における宗教の関係性について触れることはできません。そこで一般論として普段自分が考えていることをお伝えします。

歴史を紐解けば、宗教は弾圧の対象とされることが繰り返されてきました。そこで日本国憲法においては信仰の自由というものが個人に保障されています。信仰の自由とは個人がいかなる信仰をもったとしても国家として介入しないというものです。

私は、普段から宗教というものに興味をもっています。それは信仰の対象というよりも哲学的なものとして宗教について考えることがあります。「ひとはなぜ信じるのか」というのは人間の本質を考えるうえで重要な切り口と言えるでしょう。とくに私は、仏教について興味をもっていて般若心経を含めて経典の日本語訳を読むことが多いです。

脱線しますがかつて僧侶の方を対象にしたセミナーで講師をさせていただいことがあります。その様子を写真にとっていただいたのですが「まったく違和感がない」と。まさに“僧侶版ウォーリーを探せ”みたいになったことがありましたね。話を戻しましょう。

宗教を比較検討するときには一神教・多神教で整理すると各宗教の特徴がわかりやすいです。一神教では偶像崇拝を基本的に禁止しています。イスラム教は有名ですがキリスト教も本来は偶像崇拝を否定していました。一神教では「神」は唯一の存在です。ですからひとによって描かれる神が異なっていたら信仰が揺らいでしまいます。ですからあくまで個人の内心のレベルで抑える必要があるわけです。これに対して仏教などの多神教では偶像崇拝が否定されていません。人によってイメージが異なることで信仰が揺らぐことがないからです。

また各宗教は現実の苦しみに対するアプローチが異なります。例えばキリスト教などは、「現実世界は苦しいが天国にいける」というように来世における魂の救済が中心となります。極論的に表現すれば現在は天国に行くための準備期間だから耐えるべきということになるのでしょう。これに対して仏教は、この現実の苦しみからの解放にフォーカスします。どうすればこの苦しみから解放されるのかという観点です。そのひとつが「こだわりを捨てる」ということになるのでしょう。僕が仏教にひかれるのはこういった現実的な姿勢にあります。仏教についてはまたどこかで詳しくお伝えします。

こういった宗教は本来的にひとを救うために存在するものです。ですがときに宗教によって人生が狂うこともあるのも事実です。弁護士としてカルト宗教関係の仕事に関与したこともあります。この手の仕事は本当に難しいものがあります。本人には自分が被害者という意識がないからです。周囲が「しっかりしろ。目を覚ませ」と説得するほどに自分の信仰にはまって周囲から距離を取ろうとしてしまいます。否定するほどに信仰を強化するという悪循環に陥ります。

悪質な団体は、個人の苦しみや不安を煽る形で個人に近づいてきます。人は誰しも不安を抱いているものです。その不安が強いほどに誰かが「こうなんだ」と強い言葉で表現すると「そういうものか」と流されてしまいがちです。知的レベルが高い人でも流されてしまうのは、感情が論理に勝るからです。感情は論理を抑えることができますが論理で感情を抑えこむことはできません。

悪質な団体は、不安を煽る形で近づいてきたうえで「捨てる」ということを個人に求めてきます。よくあるスクリプトは、「いろんなものを背負っているからこそ苦しい。こだわりは欲望であり苦しみの源泉である。まずは捨て去ることからはじまる」というものです。そこでまずは個人の財産を寄付という形で捨て去るように指示することになります。つまり信者としては、団体を支えるという目的よりも自分の苦しみから解放されるために寄付をするということです。「自分のために」寄付をするからこそ無限に寄付をし続けることになります。ここがわかっていないと「なぜ多額の寄付を」ということがわからなくなります。

そもそもですが経済的な支援をしたからといって自分の苦しみが解放されるようなことはないです。これは免罪符によって教会が多額の収益をあげていたことにルターが異議を唱えて宗教改革がはじまった歴史からしても明らかでしょう。

宗教は活用するべきものであって利用されるものではあってはなりません。自分の人生は自分の力でなんとかするしかないということです。 なお本文での記載はいずれも個人的な浅学に基づくものであり学術的には間違っているかもしれません。そのときにはごめんなさい。

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